Structural Data Justice(データ活用の妥当性)

データ

久しぶりにManchester大学のWorking Paperを読んでみた。「A Structural Model and Manifesto for Data Justice for International Development」というタイトル。100%理解出来た自信はないけど、自分なりの気づきを書き留めておく。

Source: Heeks (2017) "A Structural Model and Manifesto for Data Justice for International Development", Development Informatics Working Paper, No.69, University of Manchester. <a rel=
di-wp69 - Global Development Institute - The University of Manchester
" width="810" height="701" />

Source: Heeks (2017) “A Structural Model and Manifesto for Data Justice for International Development”, Development Informatics Working Paper, No.69, University of Manchester.

このペーパーの目的は、Structural Data Justice(SDJ)を分析するモデルを提案するものなのだが、そもそもSDJって何だ?という感じ。

読んでみた自分の理解では、組織、社会、政府などがデータに基づく判断・行動を起こすときに、「そもそもどういうプロセスでその判断・行動に落ち着いたのか?」そして「そのデータに基づく判断・行動にはどれくらい妥当性があるのか?」という「データ活用の妥当性」的なもの。そして、上記のモデル(まだ改良途中のもの)がそういった疑問に応えるためのレンズになりえるという提案。

議論の大枠としては、インドとケニアでのデータ活用の事例を用いつつ、以下2つの視点から「データ活用の妥当性」を測るモデルを提案している。

  1. 世銀のWDR2016を始め色々なところで主張されている「ICTは色んな可能性を秘めているけど、最後は人間力」という前提で、「データ活用」と一言で行ってもその活用を決めるのは人間、その活用の技術的なクオリティを上げるのも人間、データから導き出された結果をどう活用する(判断・行動する)のも人間という視点(上記の図の「Capabilities」(人間の能力)の円)
  2. データ活用が吉と出るか凶と出るかは組織や環境(制度的側面、政治的側面(組織や人間の力関係)など)にも大きく左右されるし、また、逆にデータ活用が組織や環境にも影響を与えるという視点

例えば、インドの電力会社が電気料金未払いを防ぐために各顧客先に料金メーターを設置し、データを自動的に吸い上げることを始めたが、未払いが多いのは貧乏人ではなく、金持ち住む地域だった。政治力のある金持ち層から厳しく徴収が出来ない背景が浮き彫りに。そして、電力会社がそのデータを公開し厳しく取り立てするのか否かは、人間の判断によるわけだ。

また、ケニアのスラムの状況を把握するため、スラムに住む住民情報をGIS上にマッピングして彼らの生活改善に活用する試みがある。似たようなプロジェクトのアイデアは自分もガーナ時代に聞いた事がある。勿論、良いプロジェクトだ。例えばそのデータに基づいて、「この地区ではスラム住民が多くバスを利用しているから、路線を増やそう」とバス会社が判断したとする。バス会社にとってもスラム住民にとっても良いことだろう。でも、「そもそもどうしてスラムに不法に居住しなけばならないのか?」、「彼らは元の住居から不当に立ち退きされたのでは?」という根本的な問題から目を逸らすことになっていないだろうか。データ活用においてどの側面に光をあててるのか、それによって陰となる側面は何か?という判断も人間がするものだ。

ふと、先日やっていたNHKの番組「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」が波紋をよんでいた件を思い出した。この番組は「AIに聞いてみた」という体で日本の社会問題への解決案を紹介するもので、自分も行きつけのスーパー銭湯のサウナで楽しく見ていた。が、紹介されている解決案はAIが導き出したというものではなく、番組制作側が推している解決策をデータの相関関係を根拠に紹介してたということで、後から非難の声が。(この件については詳しくは東洋経済ONLINE「NHK渾身のAIが炎上した必然」を見てもらいたい)

要するにデータをどう見せるかは共有側の知識・能力次第であり、それを信じるのか疑って見破るのかも受けての知識・能力次第ということだ。そういうセンスがないと騙されてしまう。

このペーパーの最後に、Data Justice for Development Manifestoとして12個の提言がされているが、中でも「Build upstream and downstream data-related capabilities among those who lack them in developing countries.」という点が非常に重要だと感じた。

 

ニュースレターはじめました。テクノロジーと国際開発(ICT4D)に関する新規ブログ記事・海外ニュース・イベント情報などを月1〜2回発信しています。以下フォームからご参加ください。詳細はこちら

フォローする
データ
ICT for Development .JP

コメント

  1. […] ハードルして一番納得感があったのは、政府人材のキャパシティだ。以前の投稿「Structural Data Justice(データ活用の妥当性)」でも書いているが、やはりデータはデータでしかなく、それを利用する人間のキャパ次第。技術力的なキャパだけではなく、データを取ったが故に見たくない現実(自分や政権に不利になる情報)が見えてしまったときに、正直に公開するのか、隠蔽するのか?といったモラル的なキャパも含まれる。これはデータだけでなくICT一般に言えることだと思う。 […]

  2. […] して一番納得感があったのは、政府人材のキャパシティだ。以前の投稿「Structural Data Justice(データ活用の妥当性)」でも書いているが、やはりデータはデータでしかなく、それを利用す […]

タイトルとURLをコピーしました