先日、ガーナの地方都市(ガーナで第三の都市であるタマレという町)に行ってきました。そこで、地方の学校を見るチャンスに恵まれ、ガーナに来てから初めて、学校のコンピュータ教室を見学してきました。
自分が青年海外協力隊として2003〜2005年までコンピュータ教師をしていたエチオピアの地方都市の高校と比較すると、自分のいた高校は非常に恵まれた環境だったのだと改めて感じました。
写真のようにコンピュータ教室は埃っぽく、誇りを避けるために布カバーがされているもののPCは結構埃まみれ。土地柄砂埃は多いし、教室の窓の構造上避けられないのだと思うが、うーむ、残念。そして、ガーナ国旗カラーのペイントがされたノートPCが15台くらいが大事に棚に保管してあったものの、これも埃まみれで故障していて使えないとのこと。
それでも頻発する停電にもめげずに数少ない使えるPCでコンピュータの授業は行われているというのは朗報でしたが、なかなか環境は厳しいのだと痛感しました。正直、アフリカでもある程度発展しているガーナで、且つ、第三の都市中心部から車で10〜Ⅰ5分位の学校ならばもっと環境が整っているのかと思っていたので、期待をバッサリと裏切られました。現実は厳しい。
ちなみに下の写真がエチオピアでの協力隊時代に活動していた高校&そのコンピュータ教室です。
そんな思いで首都アクラに戻り、ICT4Educationってのは未だ幻想なんですかねぇ?と思いつつネットを見ていたら、Kentaro Toyama(外山健太郎)氏が最近出版された本を発見。早速Kindleで購入して読み始めました。以前、このブログでも紹介させてもらったことがありますが、Kentaro Toyama氏はインドのMicrosoft Research副所長として2004年から2010年まで途上国におけるICT利活用の可能性を探求されていた方。今はアメリカの大学院の研究員になっています。「Geek Heresy: Rescuing Social Change from the Cult of Technology」というこの本は、Technology=Salutationじゃない!という主張を軸に、書かれている(と思う。まだ読み始めたところで全部読めてないので…)。
ちょうど第一章がICT4Educationに関するもので、読んで見てとても共感が持てた。OLPCをはじめ、パソコンやダブレットを学校に配って、デジタル機器の利活用によって教育の質を向上させるというプロジェクトは少なくないけれど、この本の主張を一言で言えば、「テクノロジーで教育は向上しないでしょ」というもの。多分、元々そういう考えの人は結構いて、そういう人達にとっては「当たり前じゃん」で片付けれてしまうのだが、ICT4Dに期待感を持っている自分のような人間には、この手の話は終わりなき議論としてかなり興味深い。
肯定派としては、「ノートPCを子供に与えるだけで自分達で自然と自己学習を始めた」事例を語るOLPCのニコラス・ネグロポンテ氏や、「インドのスラム街の壁に誰でも自由に使えるパソコンを設置したら子供が勝手に語学や科学とかまで勉強するようになった」事例(壁の穴)を語るスガタ・ミトラ氏が有名。この本でも両者の主張は紹介されています。
一方、Toyama氏は否定派の事例も紹介し、むしろ否定派の実験・研究結果の方が的を得ているという主張。そして自分もこの意見には賛成。特に自分が納得感を得られたのは、Toyama氏が自ら実施したインドでもマルチポイントマウスの事例や、アメリカでの事例についてです。
インドの田舎の学校で1台のPCに生徒が何人も群がって学習している光景からヒントを得て開発されたマルチポインタマウス(1台のPCに複数のマウスを接続出来るので、生徒が複数人でPCを共有する場合でも、マウス独り占めを避けられる)は、結局、そのような田舎の学校ではあまり活用されずに終わったという話が紹介されています。教師がPCを活用した授業方法を知らず、PCが故障したら直す技術も予算もなく、安定した電力供給もないような田舎の学校では、複数の生徒で1台のPCをうまく使うためのマウスがあっても、それだけじゃダメなんだと。小さな改善は出来ても根本的なSolutionにはなり得ないのだと。
また、アメリカの事例を用いて「途上国だからICT4Educationが上手くいかないのか?否、先進国でもそうだ」という話も。iPadを配ったり、無料の学習用コンテンツ(MOOCs等)が充実したりしても、結局、子供の教育に必要なのは勉強の面倒を見てくれる先生・大人なんだということが述べられています。ワードやパワーポイントで文章やプレゼン資料が作れても、文章の書き方やプレゼンのロジックの立て方まではソフトウェアは教えてくれないのだと。
ただし、この本の第一章の最後に、ICT4Educationの可能性を否定はせずに、「じゃ、どうしたらテクノロジーが教育に活用出来るのか?」の可能性を探求して行きたいというToyama氏の思いが書かれており、これまた共感出来るまとめ方でした。自分もICT4Dについては比較的悲観的(批判的)な立場で見ることが多いですが、でもやっぱりICT4Dには夢や可能性がある気がして、「じゃ、どうすれば失敗しないのか?」を探求して行きたいと思っています。この本、まだまだ読み始めですが、かなりオススメです。
コメント
お久しぶりです。ICT4Eは実際とても広い範囲のものが含まれていて、それがテクノロジーによって「統合」され、なんか魔術のような力が働いてすごい効果が出るという「考え方」については私も幻想だと思います。以前と違ってICT4Eの中心はデバイスやテクノロジーからサービスやツールにシフトしていますし、それらの目的もかなり細分化されてきたと思います。今までのICT4Eのテクノロジー主導では成功はしないでしょう。ツールだけがあってペダゴジーがないと教育として成立しない、ということだと思います。
Toshiさん、お久しぶりです!確かにテクノロジーとかICTとか言われるものの多くが、ハードじゃなくてサービスの方にシフトしてきていますね。そういう一般的な流れの中でICT4Dも以前のテクノロー中心から人間中心なものに自然にシフトすると考えると、成功例が増えていくと期待したいですね。
また、おそらくラジオとかテレビとかが出現したときには、それらを教育に活用することに過大な期待を持つ人がいたと思うのですが、今はそういう人はおらず、適材適所で活用しているように、ICTツールが当たり前になってきたときには、やはり適材適所でそれ相応の費用対効果で活用されるのだろうと思います。
一方で、そういう普通の流れの他に、なにか爆発的なインパクトをICTが与えるようなプロジェクトとかサービスが出来るんじゃないか?という期待は持ち続けたいですね。
[…] 先日このブログで取り上げた本「Geek Heresy: Rescuing Social Change from the Cult of Technology」の中から今回感じたギャップを説明するに非常に共感出来る部分があったので紹介したい。 […]
[…] ちなみに今回の主催者は先日Tomonaritが書籍の紹介もしていた外山健太郎氏で私の指導教官。そのため、おそらく私も主催者側として色々とお手伝いすることになると思われる。大学のあるアナーバー(Ann Arbor)は気候的にも最高で、全米住みたい都市ランキングで毎回上位にくるような学園都市なので、皆さんぜひ参加をご検討ください(参加予定の方はご一報ください)。 […]
[…] インターネットへのアクセスを普及させることがダイレクトに貧困削減に繋がるのか?については、個人的には懐疑的な意見ですが、国連民間セクターフォーラムでの基調講演がFacebook CEOによって行われているという点にはちょっと興奮しました。 […]
[…] 以前、このブログでも紹介した外山健太郎氏の「 Heresy: Rescuing Social Change from the Cult of Technology」の日本語訳版が発売された。日本語タイトルは「テクノロジーは貧困を救わない」。なるほど、なかなかキャッチーなタイトル。 […]
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