以前、このブログでも紹介した外山健太郎氏の「 Geek Heresy: Rescuing Social Change from the Cult of Technology」の日本語訳版が発売された。日本語タイトルは「テクノロジーは貧困を救わない」。なるほど、なかなかキャッチーなタイトル。
基本的に、「Technology = Solution」ではない!というのが外山氏の主張。その主張は上記の動画でも良くわかる。それなのに、先進国主導のテクノロジー導入をコアとする様々な開発援助(例えば、OLPCなど)が実施され失敗に終わっている。テクノロジーが出来るのはそれを使う人々の能力を増幅(Amplify)することだけで、そもそも能力がない人達にとっては、期待する効果を発揮することが出来ないという話。
Richard Heeksの「途上国のe-Governmentプロジェクトは85%が失敗に終わる(Most e-Government for Development Projects Fail)なぜならテクノロジーだけポンと導入しても、それを使う組織、人、制度、価値観などが十分準備出来てないから」という主張や、世銀の「World Development Report 2016:Digital Dividends (デジタル化の恩恵)」の結論のテクノロジーの恩恵を十分に享受するためには「アナログ・コンポーネント(人材育成など)」が重要という内容とも一致する。
そいう意味では、この本の主張はもっともであり、且つ、様々な事例を上げてそれを説明しており説得感がある。
一方、「じゃ、どうすればICT4Dプロジェクトは成功するのか?」となると、根性のあるリーダーとか、やる気のある裨益者とかの存在が重要という内容は記載されているものの、若干精神論的にも思える点に物足りなさを感じる読者もいるんじゃないかと思える。実際、Amazonのカスタマーレビューでもそういう指摘がされていた。その意見には賛成出来るものの、「じゃ、どうすればICT4Dプロジェクトは成功するのか?」の解がズバリ分るような簡単な答えならとっくに判明しているとも思う。
「どうして開発援助プロジェクトにおけるテクノロジー導入が思いのほか成功しないのか?」という問いをよくよく考えてみると、「どうして開発援助プロジェクトは思いのほか成功しないのか?」という問いとほぼ同じじゃなかろうか。そして、「どうすればICT4Dプロジェクトは成功するのか?」という問いは、「どうすれば開発援助プロジェクトは成功するのか?」という問いと同じではないだろうか。開発援助プロジェクトがほぼ100%成功しているならば、「なんでICT4Dプロジェクトは成功しないのか…?」という問いが成り立つが、そもそも開発援助プロジェクトそのものの打率が10割じゃないのだ。
今日、ガーナから日本に留学して博士号を取得し、その後も日本で働いた経験のあるガーナ人の方と一緒に食事をする機会があった。彼曰く「ガーナの人達はDevelopmentしたいと語るが、何がDevelopmentなのかわかっていない人が多い」とのこと。この言葉は結構刺さった。彼は先進国とガーナを比較し、何が足りないかを理解しているが、それは彼がその比較を出来るだけの経験や勉強をしているからである。そういう機会に恵まれない人達(こういう人達が開発援助プロジェクトの裨益者となるのだが)にとっては、今の生活と何を比較して「どこに向かうべきか(つまりDevelopmentの方向)」を理解するのだろうか?そいう人達はDevelopmentと言ったときに具体的にどんなイメージをもっているのか?そもそも持てるか(実は今の生活が当たり前で、それなりに満足?)?
そして「ICT4D(テクノロジーの導入によるDevelopment)」とは、とりわけ彼らにとって具体的イメージが持ちにくい分野なのではないだろうか。なぜなら、裨益者としての対象となるような人達には、テクノロジーの具体的イメージ(活用方法やそれで何がどう便利になるのかなど)もDevelopmentの具体的方向性もいずれも分りにくいから。
そう考えると、懇切丁寧に粘り強くその具体的イメージを説いて回る根性あるリーダーとか、ある程度の具体的イメージを持っている(欲しいものがわかっている)やる気のある裨益者とかが、成功要因になるものわかる気がした。
コメント
ガーナ人の何がDevelopmentかわかってない、って本質的ですね。確かに我々も未来の地球の姿はわかってないまま「よりよい社会を!」と言ってるのと一緒ですね。知らないものは目指せない。
そうなんですね。本質的な一言で、考えさせられました。そして、この投稿を書きながら次に出て来た疑問は「もし開発援助が打率10割になったらどうなるのか?」という問い。開発援助プロジェクトの成功を目指して関係者は努力をしているけど、全てが上手く行ったとして、どこまでDevelopmentが進むのか?そもそもDevelopmentというもののゴールが100点だとしたら、開発援助で何点まで達成出来るのか?などと考えてしまいました。答えの出ない問いですね。
確かにDevelopmentとは何なのか?それは単なる「西欧化」とどこが違うのか?という問題もありますし、貧困って単に貨幣収入の話なの?という問題もあります。それはとりあえず置いておくとして、テクノロジーが単に理系の機械屋の話で終わらせてはいけないと思うんです。テクノロジーそのものが進化する必要がある。哲学や言語学、心理学や社会学なんかを巻き込んでいかないとテクノロジーという概念そのものが陳腐化するし、もちろん貧困を解決することはできないでしょう。また開発に資することもできません。テクノロジーを理系の機械屋の独占から解放することこそ、ICD4Dの使命ではないでしょうか。今まさにAIの進化なんかで、こういったテクノロジーの概念そのものの進化が求められていると思います。そういうインクルーシブで柔軟なテクノロジー2.0であれば、開発に資するし、貧困にも立ち向かえると私は信じています。M-Pesaがケニアの社会を変えたのは単にそれがSMSという社会に浸透した適切なテクノロジーだっただけではないはずです。そこに社会的な文脈があり、ストーリーがあったからだと思います。社会的な開発の鍵を回す「記号」がそこにあったと。OLPCは確かにプロジェクトとしては失敗でしたが、社会実験としては成功だったのではないかと思います。いろんな意味で。
実験的と評されるか、イノベーションと称えられるか、全ては勝てば官軍的な事後評価ですよね。良い商品とは売れた商品である、みたいな。
多くの(暗黙的な)日本人にとっては、Development = 悟り、ではないのかと感じています。あらゆる作業を「悟りの境地に至るための修行」とみなすことで思考放棄できる特性が、キーであり大きなギャップでもあり、ある種のブラックさを生み出している要因かもしれません(笑)。なにせ「他力本願」ですら、阿弥陀如来さんが助けてくれるのは修行の地に行くことだけらしいですから(爆)。
技術について、消費者、産業創出の観点から書きます。消費者として以前よりも、技術が進み物事が安く出来るまたは購入出来れば、同じ収入でも実際えられる効用は大きいと思うので、GDP以上に良い暮らしが出来ている可能性が有ります。また、技術自体が地域の産業になりうるということです。インドのバンガロールではハイテク産業によって地域経済開発が進んでいます。加えて、技術にも陳腐化されたものとフロンティアにあるものがあるため一概に結論が出すことは適当ではないと思いました。その為、テクノロジーで貧困を救う事を保証しないという表現の方が適当かと思いました。
Toshiさん、Ozakiさん、ごおおおさん
いずれも示唆に富んだコメントをありがとうございました!
Toshiさんのいう「テクノロジーを単に理系の機械屋の話で終わらせてはならない」というのは同感です。テクノロジー中心(Techno-centic)なICT4Dプロジェクトの失敗は、ある意味、理系の機械屋さんがそれまでの領域から一歩外に出て前進を試みた足跡であり、後から振り返ると「あの失敗があったからこそ、今はこんなふうにテクノロジーが途上国で有効活用されるようになったんだ。」とう日が来るのかもしれないですね。そして、その代表格がOLPCだったりするのかも…と思えます。
Ozakiさんの指摘のとおり、「勝てば官軍」的な評価において、「今」この時点を切り取って評価するのか、それとも勝つまでの(悟りまでの)道の途中というプロセスだと割り切って評価するのか?そいういうことなのかもしれないですね。そして、ICT4D否定派は前者の視点であり、肯定派は後者の視点なのかも。この視点の違いがICT4D否定派と肯定派の議論が平行線なままの背景とも言える気がします。
また、ごおおおさんの指摘の点もICT4D否定派と肯定派の議論が噛み合ない背景だと思います。ICT4Dといったときに何をイメージするのか?は結構人によって大きく異なると感じます。ICT自体が幅広いしテクノロジーという区切りでAIとかファブラボみたいなものも含めると更に幅広すぎてイメージは千差万別だろうと思います。「携帯電話の普及率が10ポイント上がる毎にGDPが1.2ポイントあがる」(インドの例)みたいなことをイメージする人もいれば、OLPCとかテレセンターみたいにダイレクトに貧しい人達がICTから恩恵を受けるようなことをイメージする人も。
今回紹介した外山氏の本は、どちらかというと後者のイメージでICT4Dを語っている気がするけれども、上記で紹介した動画(この内容も本にも記載されていますが)を見ると、IBM、インターネット、マイクロソフト、Google、iPhone、とイノベーションが起きてもアメリカの貧困率は変わらないという指摘は、前者のイメージでも否定的に語っていると受け取れる。
でも、いずれにしても、ごおおおさんのコメントには同感で、自分は外山氏の主張をより性格に表現するなら「テクノロジーは格差を縮めない」なんだと思います。そして、たとえテクノロジーが格差は縮められなくても、全体の底上げは出来るのだろうと言う点で、「貧困は救えない」は言い過ぎかも。ただ、あくまでも本のタイトルでキャッチーなほうが良いという視点でなこういうタイトルになったのかと勝手に憶測。
しかし、みなさんからのコメントには、自分も考えさせられる点があり感謝です。ありがとうございました(と、閉めた感じのコメントになっちゃいましたが、勿論、このコメントへの返信もアリですので、遠慮なくどうぞ!)。
ごおおおさんのいう「インドのバンガロールではハイテク産業によって地域経済開発が進んでいる。」という点は確かにこの本で批判しているテクノロジーとは違うものだと私も思います。この本では主にツールとしてのテクノロジーについて述べていて、産業としてのITの可能性はあまり触れてない気がします。ちなみに余談ですが、このタイトルについては、翻訳者か出版社の方が付けた名前のようで、著者は和訳本が出版されるまで知らなかったようです(笑)
ちなみに原著は「Geek Heresy – Rescuing Social Change from the Cult of Technology」ですので、確かにそのまま日本語にするのは難しかったんでしょうね。私が意訳するなら「テクノロジーだけでは社会変革は起こせない」とかでしょうか・・・。
甚だ不謹慎ではありますが、この本で言うところの「テクノロジー」の立ち位置って、Googleで『2ch AA 男の器』『2ch AA 理想の彼氏』を検索して出てくるアスキーアートに近いと感じます。
原題の「Geek Heresy – Rescuing Social Change from the Cult of Technology」については、皮肉が効いてますよね。Cultは「熱狂的」だけではなく「バズワード的に(検証なしに)流行ってる」っぽい読み方もできます。『社会的問題の解決をバズワードに丸投げしたいと考えている善きサマリア人へ』的なタイトルですかねー(笑)。
Heresyには、「(この本に書かれている内容は、その善き人たちにとっては)異教徒による定性的な発言として、最初から理解が拒否されるんだろうけどね」という自嘲がこめられていると考えるのは穿ち過ぎか。
ご無沙汰しています。ICT4Dの博論が正式に受理されました。USPNet PEACESAT, Vanuatuのケーススタディ、ユニバをアマルティア・センのCAで議論しました。私は外山健太郎さんと同じ立場です。I made open access my PhD thesis. http://hdl.handle.net/10523/7139
>hayakawaさん
博士論文が受理されたとのこと、おめでとうございます!時間を見つけて、論文にアクセスしてみようと思います。楽しみです〜
1年遅れでようやく件の本を読みました。この本のような書き方は、元々嫌いな部類になるのですが、なぜか主観的に入り込んでしまいました。とても不器用なエンジニアが書いた人間の内面的成長や社会心理学の本?学問的に深く(見せる)書き方でもなく、「2時間でわかる」的な軽いノリでもなく、事実をドマチックに見せるルポでもなく、「私、とっても悩んでます」みたいな書き方の本は、そうないと思いました。
以前報告書で、開発途上国のICT利活用は現地で活動しているNPOと組まなきゃダメ、と書いたことがありますが、どういうNPOと組んでプロジェクトではかくかくしかじかの点に気を付けて企画や運営をやっていきましょう、とノウハウ本として出せたら、もっと売れた本になったかもしれないな、などとも思いました。もっとも、それは著者の忌み嫌うところではあるでしょうが。
いろいろ調べてみたくなる事例も載っていて面白かったです。
「私、とっても悩んでます」みたいな書き方…というのは良い表現ですね。自分は読んだ時に、ICT4D分野のリーディングパーソンなのに、これで良いのか?と若干物足りない感じを受けました。でも、そこが良さでもあるんですよね。
[…] やはりICTは個人の持っている能力や財力をAmplify(増幅)するだけ、という以前から言われている原理原則と繋がる […]
techno-cult をサーチしていたら、こちらへ漂着しました。私の付け加えたい点は三つです。
1)日本人が主導した開発物語があります。古典的名著と言えるでしょう。
服部正也著『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』中公新書1972年(増補版2009年)
服部氏が主導したこのプロジェクトは、20世紀に実施された種々の開発プロジェクトとはかなり毛色が異なります。それは本書末尾の以下の言葉に集約されています。
「 私は戦に勝つのは兵の強さであり、戦に負けるのは将の弱さであると固く信じている。私はこの考えをルワンダにあてはめた。どんなに役人が非能率でも、どんなに外国人顧問が無能でも、国民に働きさえあれば必ず発展できると信じ、その前提でルワンダ人農民とルワンダ人商人の自発的努力を動員することを中心に経済再建計画をたてて、これを実行したのである。そうして役人、外国人顧問の質は依然として低く、財政もまた健全というにはほど遠いにもかがわらず、ルワンダ大衆はこのめざましい経済発展を実現したのである。途上国の発展を阻む最大の障害は人の問題であるが、その発展の最大の要素もまた人なのである。」
2)20世紀のテクノロジーは、EPR(Energy Profit Ratio)が93という途方もない特質を有した、中東地域の巨大油田を前提に構築されています。既に after Peak Oik の21世紀では、今後そういったFree lunchはあり得ません。この蜃気楼が、シンギュラリティ Singularity を始めとした Techno-cultを未だに跋扈させているのです。scale down, local solution、といった標語こそが、21世紀のテクノロジーの標語であるべきです。
3)Techno-cultの震源地は、米国です。19世紀後半、発展途上にあった米国がたまたま欧米諸国中、唯一の産油国で、水資源の宝庫だった、というこの 「 Wahlverwandtschaften (Elective Affinities) 」が20世紀の人類の運命を決定したのです。
ということで、長くなり失礼しました。願わくは、easy oil が急激な価格上昇する前に、核のゴミが処理されることを切実に願っている、一粒種を21世紀に残してしまう renqing でした。
renqingさん、コメントどうもありがとうございます。『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』の存在は知っていたものの、いまだ読んだことがないので、読んでみようと思いました。
テクノロジーとエネルギーの関係性についても、なるほど勉強になりました。
「scale down, local solution、といった標語こそが、21世紀のテクノロジーの標語となるべき」に同意です。
tomonarit さん
少しだけですが、こちらの記事を拝見し、貴サイトの趣旨にも共感する点多々です。
「ITと開発問題」、なかなか難しいテーマですね。私は歴史に関心があります。そこから、徳川日本の「開発」とEarly Modern Europe の「開発」を比較して考えることがありますが、そこからすると、現代の本質的で喫緊の課題は、置いてきぼりされた「低開発」地域というよりは、むしろ「過剰開発 Over-developed」されてしまった、先進諸国の「過剰」さを、「低開発」地域へのダメージを極力抑制しながら、いかに「清算」するのか、という事であるような気がします。実際、私たち「開発済」国民は、その異常さに麻痺している危険性があります。「実際現代人は少しづゝ常に昂奮して居る。」とは、柳田国男の1930年の診断でした。私が既に老境に入り、こちらに集う方々の「若々しさ」についていけないというだけなのかも知れません。私のこの独り言がこちら様へのネガティブなコメントにならないことを祈ります。
下記、弊ブログ記事をご笑覧頂ければ幸甚です。
1)感覚の階梯、あるいは改訂: 本に溺れたい(柳田国男の引用元文献はこちらにあります)
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2019/04/post-67b2b4.html
2)エントロピーと成長経済(1): 本に溺れたい
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2016/05/post-126f.html
3)エントロピーと成長経済(2): 本に溺れたい
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2019/05/post-40009d.html