東洋経済オンラインで、AIを使った学習塾「Qubena(キュビナ)アカデミー」が取り上げられていました。先日、エチオピアのアジスアベバでもAIを取り入れた学習用タブレットの試行がなされていると紹介しましたが、日本でもかなり進んでいるようです。
Qubenaアカデミーでは、生徒は塾に来てタブレットを使って勉強をするスタイル。その問題の出し方はAIが考えており、生徒が問題を間違えると、その間違え方をAIが分析し、つまづいたところが分るようになる問題が続々と出題され、それを解いていくと最初に間違えた問題も出来るようになるというもの。一方、間違えない子はどんどん難しい問題へステップアップできる。なんと「学習スピードを7〜10倍にまで高められる」らしい!(超ざっくりな説明なので、詳細は上記リンクから元の記事を見てもらうと、もっと「スゲぇーなー…」という感じが伝わると思います)。
特に自分が面白いと感じたのは、この会社の社長さんが塾という形態に拘っている点。このやりかたなら「先生いらないじゃん?」と思うのですが、社長さん曰く、講師は生徒のやる気を出したり、メンタル面をサポートする「コーチング」の為に生徒の傍らに寄り添う必要あるという。確かに科目を教えるという「ティーチング」は AIに任せられるが、「コーチング」は生身の人間が必要だろう。
いきなり生活感溢れる話題になりますが、我が娘(小学校1年生)もおだてないと宿題をしないです。そして、漢字が分らないうちの奥さん(←エチオピア人なんでね)が傍らで「へー、こんな難しい漢字も書けるんだね。すごいねぇ!ママは読めないよ〜」とおだてる役をやってそれなりに上手く娘の気分をノセてます。
「モチベーションを上げる」という点で最近読んだ尾原和啓氏の「モチベーション革命」という本の記載を思い出しました。以下、引用です。
“AIによって世の中はいかに変わるのか。作業的に、効率的に、合理的に仕事を進めるうえでは、人間はもうロボットには勝てないでしょう。しかし、世界を変えるような新しいサービスや画期的なイノベーションは、1人の人間の偏愛によってしか生まれません。
これからは、この偏愛こそが人間の価値になる時代です。好きなことをやり続けることこそが最大の競争力になるのです。”(第2章「偏愛こそが人間の価値になる」より)
合理的、作業的なことは人間はAIには勝てないが、「なぜか自分だけが頑張る意味が持てる」という偏愛によるモチベーションは、人間にしかなく、それが人間の強みだという話が書かれています。
最初の話に戻ると、今後、先生に求められるスキルは、教え方のスキルじゃなくて、子供の関心をどんどん延ばして、色んなことにチャレンジするモチベーションを上げるというコーチングになっていくのだと言う点はとても納得(これまでもコーチングは先生のOne of themのスキルだったはずだし)。
「詰め込み教育」から「ゆとり教育」に変わり、その反動でまた最近は「詰め込み教育」の傾向にあるけれど、AIが学習スピードを早めるくれるなら、「詰め込み」の学習量で知識を高め、且つ、「ゆとり」が目指した「生きる力」を育む時間もとれるようになるのではないか、とAIによるポジティブな影響に期待したい。
AIによって職を奪われるというネガティブ論もあるけれど、教育分野に限らず、やらないといけないけど面倒な仕事はAIにお任せし、やりたい仕事に集中出来るようなるというのが、理想的なAIの活用方法だと思う。ただ、そのためには自分のなかで「やりたい仕事」が明確にあるのが前提条件なので、「偏愛によるモチベーション」を大切にしなければ・・・!と思う訳です(←自分自身への自戒も含めて)。
コメント
テクノロジーによって、知識獲得はどんどん効率化される。近いうちに暗記パンも発明されるかもしれない。少なくともGoogleグラスで目の前に常にWikipedia結果や翻訳結果が表示される。こういった未来はすぐそこまできてると思います。
その一方で、「じゃあ何が必要なのか?」という議論においては大きく二つに分かれてると感じています。一つは、「こういう時こそリベラルアーツ(教養)こそが大事」という人たち。大学関係者に多い気がします。そしてもう一つは、「こういう時だからこそ最新の技術が大事」という人たち。このQubenaの人は後者ですよね。
技術はいくらやっても結局機械に追い越されてしまいそうだし、教養だけじゃ機械は使いこなせないし。私もどっちなのか自信が持てず、子供を育てていて、どういった方向にナビゲートすべきか悩みます。
Qubenaアカデミーは東進ハイスクールの進化版ですね。
ただ、基本的なコンセプト(コーチングは人間)は同じです。その点は私も同意です。
さて、「何が必要なのか?」に関して、私の個人的な意見は「両方必要」です。
よって、子育ての際はその点を意識しています。あとはどのタイミングで、何を(教養 or 技術)、どれくらい与えるかは個人の興味関心によるので、要検討ですが。
※ちなみに、英語教育でも、「インプット(Reading, Listening)が大切か、アウトプットが大切か(Writing, Speaking)」が学校現場で議論されています。これも人によって答えは異なりますが、私の答えは「両方大切」です。
なるほど・・。両方ですか。ただ、教養については、大学時代に「一般教養」という枠で幾つか学部外のを取らねばなりませんでしたが、全く興味なく苦痛で、結果何も頭に残りませんでした。今でこそ教養の大切さを感じますが、あの年齢の子供達に自分の興味以外の勉強をさせる動機付け、これは非常に難しいですね。やはり親の役割は子供に様々なことに興味を持たせるようにナビゲートすることや経験の場を与えること、なんですかね。
今年の4月に小学校入学の息子を抱える身です(笑)。
『先生に求められるスキルは、教え方のスキルじゃなくて、子供の関心をどんどん延ばして、色んなことにチャレンジするモチベーションを上げるというコーチング(ナビゲータ)になっていくのだ』について、以前から高等教育の分野では言われてた記憶がありますが、それが初中等教育にまで降りてくるとすれば、現場の先生は大変だろうなぁと思うと同時に、親がこれまで以上に子供の興味を支えないとイカンのかな、とも。
私見ですが、世間一般に言われている「技術」は、技能(スキル)と 技術(テクノロジー)というレイヤーに分解できると考えています。スキルは個人で体得するプレゼンタブルなもの、技術は市場に流通できるもの、です。
小学校では勉強や学習のやり方(事象・事物の捉え方を含む)を学んで欲しいと思うのですが、小学校の英語教育やプログラミング教育って、結局学科の一つになると相対的な成績をつける必要上、「技能(スキル)」に振れている感がしています。スキルは技術と教養の上にあるものじゃないかな、と少々心配。
若干、お父さんの悩み相談的になってしまいますが、自分も7歳の娘の親として非常に悩みますね。教養と技術のどっちが大事か?親の役割は?うーむ・・・。ぶっちゃけ一番の問題は、自分自身があまり親として成熟していないので、「好きな事やればー」と放置プレイ的な対応に自然となってしまう点。そんな自分のダメなところを正当化する投稿でもありました(←半分冗談、半分本音)。
好きこそものの上手なれ、というのはきっと自分みたいな親の拠り所的な格言でしょう(「わんぱくでも良いたくましく育って欲しい」も)。でも、おそらく嫌なことはコンピュータやロボットがやってくれる未来が来る傾向にあると考えると、「好きを長ばす」ってのはこれまで以上に大事なのでは…と思います。でも、いくら好きでも娘がゲームばっかりやっていたら、やはり止めたくなるし。言うわ易し・・・。
そんなわけで今の悩みは、ニンテンドースイッチを買うか否か?です。これ悩んでいるお父さんは結構いると思う!
[…] この点については、「独学で学んでものに出来るか?は本人のモチベーション次第」との意見が。外山健太郎氏の本や世銀のWDR2016でも書かれているように、やはりICTの活用が成功するのか否かは「モチベーションが大切」。そして、モチベーションを鼓舞させるには、「ああなりたい」というロールモデルの存在が重要という意見が最後にキャスタリア代表の山脇さんからありました。 […]