このタイトルの投稿を最初にしたのは、もう8年近く前の2012年4月でした。そのとき、以下のクイズを出しています。
クイズ:
『貧困ライン以下の生活をしいられている発展途上国の田舎の学校。生徒数は30名。必要な教育用コンテンツやソフトが既にインストール済み30台のタブレットPC(ノートPCや携帯電話に置き換えてでも良い)が学校にあるとしたら、この30台のタブレットPCを、生徒一人に一台ずつ配りますか?』
(答えは最後に)
さて先日、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」の著者である新井紀子教授のインタビューを読んでとても面白かったので紹介します(ちなみに、この本については以前、このブログでも「読解力が人生を左右する! 〜「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読んで〜」という投稿で取り上げさせて頂きました)。
このインタビューは、『「ノートが取れない」中学生。日本の子どもたちの読解力はなぜ落ちたのか』 というタイトルで、大体以下のようなことを言っていました(とても大雑把に書いているので興味・時間がある人は元のインタビュー記事をご覧下さい)。
- 日本の子どもたちの読解力が低下している
- 今の子どもの多くが、中学生になってもノートが取れない
- 板書を写させると、写すことに「認知負荷」がかかりすぎるので、先生の話が聞けなくなる
- 便利なテクノロジーの進化で失われた能力がある(日々の生活の中で学ぶ機会が減っている)
- 読解力の低下はテクノロジーの発展と密接に関係している
- 特に小学生の学習にはタブレットは良くない
- 恵まれた読解力を持った人は社会のために使うべき
以下、ICT4Dに絡めて特に気になった点を抜粋して、ICT4D観点でコメントしていきます。
読み書きとは?
新井:「書く」行為はそもそも人間にとって不自然な動作であると認識して欲しいのです。世界には8000とも言われる言語がありますが、書記言語(文字を持つ言語)はごく限られています。しかも歴史も浅い。「読む」「書く」はプログラミング同様に不自然な行為ですから、その時代と環境と要請にしたがって、カリキュラムを構築して確実に身に着けなければなりません。
Source: https://www.businessinsider.jp/post-204493
けれども、私たち大人たちは自分が子どもだった時代に、読み書きを「自然に」身に着けたと思い込んでいます。ですから、自分たちの子どもの世代も、放っておけば「それくらいは」できるだろうと信じています。でも自転車もただ乗れるようになるわけではないのと同じように、字を書くというのは相当な集中力とトレーニングが必要なのです。
まず、スタート地点として、読み書きは「出来て当たり前ではない!」という点に「なるほど!」と思いました。確かにそのとおりで、途上国に行けば識字能力のない人も沢山いて、都会でタクシーの乗って、「領収書に名前書いて」とペンを渡しても「俺、書けないからお前が書け」という運転手さんにも良く会います。この認識、大事だなぁ。
タブレット導入しますか?
そして、日本でも学校教育にタブレットを導入する動きがありますが、それについて新井教授の意見は以下のとおり。
新井:これはもう終わりだなと。特に小学生には絶対、タブレットは良くないと私は確信しています。 実際、先進的に導入した私立学校や家庭で既に弊害が出ています。小学校からタブレットドリルで学ぶと、紙や長文にはもう戻れないんです。意外なことですけれども、検索すら自分ではできなくなる生徒が出てくる。 学びが非常に“消費的”になるのでしょう。 けれども、大学や社会で求められる学びは“生産的”な学びなので、タブレットドリルで育った子は立ち直れないほど挫折してしまう。
Source: https://www.businessinsider.jp/post-204493
「検索すら出来ない生徒も・・・」ひぇ~、恐ろしい。毎月のように○○ゼミからタブレットで勉強しましょう!というお誘いのチラシが送られてくるけど、実際はどうなのか。我が家の娘はタブレットで動画ばかり見ているくせに、この手の教育用タブレットについては、全く関心をしめさないので、タブレットでドリルとかするとどうなのか?というのが肌感覚で分からないのですが、「学びが非常に”消費的”になる」というフレーズに、ICT4Dとの共通点を感じました。
途上国でICTを活用したプロジェクトでも、NGOなり援助機関なりが有益だと思う情報を一方的に裨益者に配信するような取り組みは、裨益者を単なる情報の受け手(消費者)として見直しており上手く行かない。一方で裨益者自らが情報を作り出すようなプロジェクトは裨益者をプロディーサーとして扱っており、上手くいく可能性が高いと思います。
初見で「徳川家康」が人名だとわかるのは何故?
また、「文章が読めるとはどういうこと?」という観点から以下を引用します。
新井: 改めて文章が読める、とはどういうことかというと、まず字が読め、その次に単語レベルで読める。
Source: https://www.businessinsider.jp/post-204493
例えば「徳川家康」などの初めての言葉に出合った時も、他の言葉が分かっていれば、「徳川家康っていうのは、徳川幕府を作った人で……」と分かり、新たに徳川家康という語彙を獲得できます。まず「これは人の名前なのか、物の名前なのか?」という分類が大体できなければ厳しい。分類ができるためには、幼児期の、字を書かない段階で、耳から聴く語彙が相当量ないと厳しいでしょう。
この点も納得。世界銀行のWDR2019でもデジタルの恩恵を受けるには、 教育が重要と指摘されており、「読み書きそろばん」の初等教育の重要性にも言及されていました。私が神戸情報大学院大学でやっているICT4Dの授業でも、一番最初の日に伝えることの1つに、DataとInformationの違いがあります。アルファベットが読めるだけの人にとってのDataが、読解力のある人にとってはInformationとなる、というように。例えば、過去1ヶ月間のトマトの市場価格情報を見たときに、それをData(=単なる価格)としてしか理解しない農民もいれば、読解力のある農民はそこから今度の市場価格のトレンドも読み取れるかもしれない…というような。これは、Heeks教授のInformation Value Chainというモデルでも言われていることです。
以下の図がそのモデルですが、DataがInformationになるためには、DataをAssess(査定)する必要があり、そのためにはKnowledgeに基づくIntelligenceが必要、というのが赤枠でくくったところが意味していること。このIntelligenceってのに「読解力」も含まれるんじゃないかと思います。
なお、左下の方は今回のトピックとは違いますが、Dataを読解して活用するためにはインセンティブやモチベーションによって突き動かされる(=Imperative)必要があるという意味だと私は理解しています。
現場を見よう
最後にもう1つ。
浜田(←記者さん):新井さんも関わっていらっしゃる板橋区の実例で、実際に読解力が上がっている授業では、ICT教育とは無縁の、新聞記事を読んでその要約を書く、という「昭和的」な方法で成果を上げています。実際の現場とは違う政策がなぜ進んでいくのでしょう。
https://www.businessinsider.jp/post-204493
新井:現場を見ていないからだと思います。タブレット導入で今まで7時間かかっていた授業が2時間で終わり、残りは深く考える時間に当てる、というような授業は、麹町中学校のようなある意味「特殊な環境」の学校だけでできることだと思います。
「現場を見るべし」というのは、これまた国際開発プロジェクトでも同じですね。これについては、また別の機会にもう少し話したい思います。
まとめ
こうしてみると、教育におけるICT活用というテーマは日本でも途上国でも共通の課題があり、逆に途上国のICT for Educationプロジェクトから日本が学べる点もあるような気がしました。最後に冒頭のクイズの答えですが、かつてのブログ記事(一人に一台、タブレットPCを配りますか?)をチェックしてみて下さい~。そこに答えが書いてあります!
コメント
毎度興味深いネタをありがとうございます。
日本語に限らず、特に「書く」動作は「自然に」は難しいのでしょう。
現在、定住外国人向けの日本語研修事業に関与していますが、日本滞在歴が10年を超え、生活の振る舞いや会話には何の違和感もない人でも、記述や読解となるととたんに「わからない」になるシーンを多く見ました。同時に、来日後数カ月程度の人が、研修を受けてどんどんと聴解・読解・記述をこなしていく姿も見てきました。
多分に会話が可能であれば、実生活の上では困ることはないでしょう。以下マクルーハン風味で。
話し言葉(声)は、時間・空間を共有する親密な人間関係を強化する(依存性が強くなるところまで)ことにもなるでしょう。
ただ、文書主義→選良意識、あるいは「文字・数字で書かれた情報(書き言葉)をより迅速かつ正確に処理できる能力」が組織運営などの秩序の基盤となっている現状では、新井教授の仰る「読解力」の重要性はその通りであると理解しました。加えて、『恵まれた読解力を持った人は社会のために使うべき』は、一種のノブレス・オブリージュのようなものなのかも。
最近では、文字文章だけではなく、映像の読解力も求められているような気がするのだけど、多くの映像の台本は文字情報なので、とりあえずは文字文章の読解力でいいのかなあ。
Ozakiさん、コメントどうもありがとうございます。
本題と違うけど、「マクルーハンって誰?」と思って検索してみたら、以下のサイトに完結に説明があって、読んだら面白かったです。
https://www.projectdesign.jp/201411/mediaventures/001696.php
彼の予言みたい言葉(「利用者がコンテンツ」とか)を見ると、とても1960年代の人には思えなない・・・。
大学生のころ、マクルーハンは、ヴァルター・ベンヤミン(複製技術時代の芸術作品)、ロラン・バルト(明るい部屋―写真についての覚書)とともに読むべき本として紹介されたものです。当時はいずれも高価だったので学校の図書館で読みましたが…。今なら解説書の方を読むでしょうね。
マクルーハンは、もともとテレビや若い文化を批判しまくるカナダの英文学者(しかもかなり保守的)だったのに、なぜかマスメディア・マルチメディアやインターネット到来期に守護聖人として(wiredあたりに)少々持ち上げられすぎた感はあります。
隣の米国の強烈な商業主義から一定の距離を置きたいためメディアリテラシー教育が盛んになったカナダの立場を考慮しつつ、新しいメディア(執筆当時はテレビジョンやラジオ、印刷物)の性質についての考察を読むと興味深さが増します。
あと、自身の思い付きを後になってしっかりと自己批判している人でもあります。広告関係(特に営業系)の人がメディア絡みの言葉だけを都合よく引用したところで、作者本人がそれらを批判・否定できる根拠を用意してくれていると思えばお得かもしれません(笑)。
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