読解力が人生を左右する! 〜「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読んで〜

3. その他

ども、Tomonaritです。花粉症が本格化して参っています…。

さて、国立情報学研究所の新井紀子教授が書いた「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読んでみました。最近、広告等でちょいちょい見かける本だったのと、新井先生には10年位前に一度お会いしたことがあったので、どんなもんかな?と軽い気持で読み始めたのですが、超面白い!というのが読み終えた感想。

以下、Amazonの内容紹介から抜粋です。

“東ロボくんは東大には入れなかった。AIの限界ーー。しかし、”彼”はMARCHクラスには楽勝で合格していた!これが意味することとはなにか? AIは何を得意とし、何を苦手とするのか? AI楽観論者は、人間とAIが補完し合い共存するシナリオを描く。しかし、東ロボくんの実験と同時に行なわれた全国2万5000人を対象にした読解力調査では恐るべき実態が判明する。AIの限界が示される一方で、これからの危機はむしろ人間側の教育にあることが示され、その行く着く先は最悪の恐慌だという。では、最悪のシナリオを避けるのはどうしたらいいのか? 最終章では教育に関する専門家でもある新井先生の提言が語られる。”

前半はAIの限界についての説明。AIといっても、結局決められたフレームのなかで四則演算しか出来ないという観点から、「シンギュラリティは来ない」という明快な持論を展開しており、納得感があります。結局、数式に落とし込むための理論は、統計や確立の理論に基づいて人間が作る必要がり、ディーブラーニングをさせるにも、ラーニング用にどんなデータを用意するかも人間が考える必要があるということが良くわかり、自分も「にわかAI限界論者」になった気分です。

そして、後半は今の中高生は教科書を理解する読解能力が低いという話。読解力調査に基づく説明でこれがとても面白い、というか、驚愕してしまう内容。ここまで読解能力が低いのか…、今の中高生(自分も人の事がとやかく言える訳ではないですが)。例えば、以下の2つの文章が同意か否かをとう二者択一の問題。

  • 幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
  • 1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

この問題の正解率が、中学1年で56%、中学3年で55%、高校3年でも76%だという結果。二者択一ってことは、鉛筆転がしでも50%の正解率なのに、中学生ヤバいよ…。他にも、正解率が鉛筆転がしレベルの問題がいくつか紹介されています。

そして、上記のような問題は今のことろAIが苦手とする問題ということです。なぜなら、使われている単語がほぼ同じなので、きちんと単語間の意味上の関係を理解する必要があるから。偏差値では、MARCHクラス(明治、青学、立教、中央、法政)に合格可能と判定されるAIでも、こういう読解力を必要とする問題はAIは苦手だということ。

「AIによって仕事が奪われる」論に対して、「AIでは出来ない新しい仕事が生まれるから大丈夫。これまで産業革命とか技術革新がある度に、同じこと言われていたでしょ?」というのが巷のポジティブな意見ですが、この本を読むと、「AIが苦手な仕事は、今の若者も苦手」すなわち「今の若者はAIが得意なことは得意」ということが理解出来ます。今の教育制度はAIに取って代わられる人材育成をしているということ。

また、この本のなかでは、読解力調査の結果から「基礎的読解力は人生を左右する」という点が力説されています。この点については、これまでICT4D分野でも言われている「ICTは基礎学力とかITリテラシーがある人の能力は伸ばすが、そうでない人は恩恵を受けられずに格差が広がる」とか、世銀のWDR2016にもある「ICTを活用出来るか否かは、結局、アナログ・コンポーネントに依存する」という点に共通します。今は情報は溢れているのでやる気があれば、MOOCなどでいくらでも勉強出来る環境があるものの、それは教科書を理解出来る読解力がある人達だけに限定された環境に過ぎない、となります。

さらに、ICTを「活用するために」基礎学力が必要というだけでなく、今後は、ICT(AI)に「淘汰されないために」基礎学力(読解力)が必要という視点が重要になってくるのでしょう。

この本では、「御三家」のような超難関私立中学に入れる子供は、12歳時点ですでに高校3年生レベルの読解能力があるので、高校2年生まで部活に明け暮れて勉強してなくても、高校3年から猛勉強すれば、良い大学に入れちゃう、なぜなら、「教科書を読めばわかるから」という点も書かれています。

さらに、読解力調査の結果、経済的な就学補助を受けている生徒の割合が高い学校の方が、読解力が低い傾向にあることも分かったとされています。つまり、貧困は読解力にマイナスの影響を与えるということ。この点もICT4D分野と共通する部分だと思いました。

以前の投稿で、ハイコンテクストなコミュニケーションについて触れていますが、あまりにハイコンテクストなコミュニケーション(文章を必要としない)が浸透し過ぎるのも、読解力を低下させることになるのかも…と感じました。

「じゃ、どうすれば読解力が上がるのか?」が知りたいところですが、この本ではそこまでの提言はされていません。ただ、計算ドリルや漢字ドリルのような暗記モノをガリガリやっても仕方ないという点や、そもそも読解力が低い者同士でアクティブ・ラーニングをやることの弊害などは指摘されています。

自分も小学1年生の娘の勉強を見て、応用問題が出来てなくても計算問題が出来ているからそれなりにOKかと思っていましたが、「こりゃいかんな…」と思い直しました。「じゃ、どうする?」は謎ですが…。

ここ最近、少し知恵がついてきた娘を叱ると、娘から「だって私、子供だからお片付け出来ないの!」とか「どうして大人は遅くまで起きてて良いのか?」など反論されるので、そんなときの口論で出来るだけ論理的に論破することを目標にしたいと思いました。

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3. その他

コメント

  1. Ozaki Yuji より:

    AI(あるいはディープラーニング)って、パターン認識のパラメータがものすごく多くなるため、導出された結果のみを人間が認識することはできても、その理由(プロセス)の説明や理解が大変だという認識を持っています。結局、結果の理解にも人間側の知識レベルやリテラシーに強く依存するため、『テクノロジーは、すでに理解して使っている人にとってより便利になっていく性質がある』から外れていないと考えます。
    導出された結果の「責任」を誰が負うか、という問題では、結果へのコミットより責任の所在が重要、というスタンスの前には、AIは無力かもしれません。むしろ、RPAやRDAのバックグラウンドで動いているAIの方がより凄みを感じます。

    国立情報学研究所の新井紀子教授は、これまでにも興味深いネタを提供してくれてますね。
    話題の読解能力に絡むところで…。今年の4月に小学校入学の息子を持つ身としては、児童向けウェクスラー式知能検査なんかは、子供の認知特性の傾向を知るうえでは興味深いです(私の家庭の場合はASDやADHDなどとは別の文脈です)。読解力(言語理解)など、知覚特性の凸凹への対応なども結構データがあったりするので、ありがたく参考にさせてもらっています。

    ハイコンテクストなコミュニケーションは、いわゆる「楽屋オチ」なネタや、仲間内でのみ通じるジャーゴンや符号のようなものを楽しむ優越感にも通じますわな。その反面、前提条件を共有していない(かつ自己肯定や他責が暴発している)「別人種」とのコミュニケーションは、能力云々以前に難しいものです。そのような人たちは無視する方がラクなんだけど、(種々の制約により)コミュニケーションを取らざるを得ない状況にどう対応するか、が(超高齢化社会を踏まえた)今後の課題なのかも。
    「老人の取扱説明書」=> 各種論文や医学的見地が面白いです。決して文芸書ではないです。
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    • tomonarit より:

      AIが導出した結果に対する責任の所在って問題は、確かにそうですよね。自動運転中の事故が誰の責任か?等。先日読んだら本で、例えば、道路の右側に老人、左側に小学校数人が歩いている場合、自動運転の車がやや左側寄りに走るのは適切な判断なのか?という問題提議がありました。じゃれあって歩く小学生が道に飛び出してくるリスクを過去のデータから学んだ結果、AI がそう判断した場合、それを倫理的に正しいと誰が判断するのか?また、それで老人を跳ねた場合、誰の責任なのか?等、AIが社会で本格的に活用されるには、まだまだ課題がおおいと感じました。

  2. TIOSHI より:

    私もシンギュラリティはないと思います。AIはエティカルな問題であくまでアシスタントでなければならない。読解力の問題については2つめの文は文法的にも「間違って」います。AIの場合、この「間違いを間違いと認識できない」ところに限界というよりも「本質的な欠陥」ではないのかと思います。
    中学生の方はむしろハイコンテクストなコミュニケーションに慣れすぎて、最初の文から自動的にコンテクストを生成してしまうために、2つめも同じだと自動的に「誤解」してしまうところに問題があるのでしょう。
    つまり同じ「間違い」であっても、その間違いが生じるメカニズムは全く違うと思います。(言語学でいうところの「誤用分析」)なので、これを正解/不正解という二元的な結果から同じもののように論じることは行きすぎた単純化という気がします。
    読解力とは言ってみれば記号とその意味(セマンティック)を結びつける能力です。コンテクストは多分一連の記号とセマンティックの特定の結びつきのセットであるとも言えます。
    根拠があるわけではないんですが、読解力をアップさせるにはこのコンテクストを多様化させるための「非現実の物語」に慣れ親しむのがいいのではないかと。
    自分が慣れ親しんだ現実というコンテクストから抜け出す能力がなければ、他人の痛みを理解したり、その気持ちを推し量ることはできない。
    正解/不正解という二元化された世界観から脱出してはじめて読解力の世界に入ることができるように思います。

    • tomonarit より:

      示唆に富んだコメント、どうもありがとうございます!とても勉強になります。結果そのものよりプロセスの違いまで考えるというのは、おっしゃっるとおりですね。この本で興味深いのは、調査結果からは読書の好き嫌いが読解力のあるなしと正比例するという結果が得られなかったという点でした。←。どうしたら読解力が上がるか?の解が書かれてない理由の一つ。でも、読書だけでなく色々な方法で非現実の物語に慣れ親しむことは可能で、まだ重要だと自分も思います。例えば、慣れ親しんだ自分のコンテクストから抜け出すという観点では異文化体験もその一つだと思います。

  3. […] […]

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